論語の言葉

ホ・オポノポノを世界に広める活動を続けているイハレアカラ・ヒューレン博士は、著書の中でホ・オポノポノの考え方はブッダ、シェイクスピア、キリスト、などさまざまな宗教、文学、哲学の思想と相通じると具体例を挙げながら書いておられます。

 

私もヒューレン博士の本を読みながら、「確かにそうだなあ。」と思っていました。そして先日「論語」の中に

夫子の道は忠恕のみ

論語 里仁第四

という文章があることを知り、ががーん!と衝撃を受けたのでした。

 

夫子の道は忠恕のみ

「夫子の道は忠恕のみ」の意味はつぎのようなことです。

 

孔子の思想を貫く道とは、内なるまごころに背かぬこと(忠)と、まごころによる他人への思いやり(恕)である」

 

この文章を読み、深く深く共感し、感動した私は、「夫子の道は忠恕のみ」をワタクシの座右の銘にしよう、と心に決めたのでした。

 

でも、ホ・オポノポノに出会う前なら、この文章にここまで心揺さぶられることはなかったでしょう。

「内なるまごころ」と言われても、自分の良心、くらいにしか考えが及ばなかったと思うのです。

 

内なるまごころ

でも、ホ・オポノポノを勉強中の私がこの文章に出会ったときに感じたのは、忠とはまさにウニヒピリのことではないですか!と、いうことでした。

「まず、内なるまごころ(ウニヒピリ)」「何よりも最初に、内なるまごころ(ウニヒピリ)」

自己主張が強い、というのではなく

 

「自分の中の内なるまごころ(ウニヒピリ)を見つめる」「自分のまごころ(ウニヒピリ)の声を聞く」

 

そうやって自分の内なるまごころを大切にしていたら、おのずと周りの人や物事に対しても思いやりを持てる。それが人の道。生きるということ。

 

ううー深い。2500年前の大昔から変わらない真理。論語に書いてある大切な真理。でも、私は今まで生きてきて、やっと40を前にしてその真理を知るに至ったのです。もう少し早く知りたかったなあ。

 

不惑の年を超えたとき

そして論語の中のもう一つの言葉、

吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして心の欲するところに従いて、矩(のり)をこえず。

論語 為政第二

あまりにも有名ですね。四十の足音が間近に迫っているワタクシ。不惑の年を超えた後、どんな風になっているのでしょうか。

 

1つはっきりと言えるのは、ホ・オポノポノを知り、惑うことが少なくなったということ。そしてあと十年、日々クリーニング「夫子の道は忠恕のみ」 の歩き方をしていたら、孔子やKR女史、ヒューレン博士のいうように「天命」を知ることができるのでしょうか。

 

それは十年たってのお楽しみ。このブログ、あと十年続けてみようと思います。

 

Thank you. I love you.

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